白川勝彦法律事務所
民事の相談
刑事の相談
借金の整理
法的論述
事務所紹介
法の庭徒然草

1979年白川勝彦政治法律事務所を開いて40年間、私の基本理念は一貫して“リベラル”と“権利のための闘争”であった。それは現在も変わらない。

 

私の貧乏物語ー2

No.56

前回の"法の庭"徒然草のupdateから、随分とあけてしまった。その理由は、前回の続きを書かなければならないと思っていたからである。私はいま、日本の貧乏と闘っている。数十年前の、私に関する貧乏物語を書いているヒマはなかった。前回の“法の庭”徒然草は「この続きは又にしよう」で終わっている。だから、どうしても、その続きから始めなければならないと思ってしまうのだ。万事、このように先のことを縛ってしまうのは、できるだけ避けた方が良い。

しかし、成り行きから、私の貧乏物語の続きを書くことにしよう。苦しかったとはいえ、それまで動いていた家業の倒産は、あらゆる面で大変化であり、子供心にも辛いことであった。だが、中学1年生の私にはどうすることもできず、ただ、その大変化に耐えるしかなかった。また、父や母を苦しめないためにも、それしかなかった。社会全体が貧しい時代であり、倒産したからといって、日々の暮らし向きに特に耐えがたいところがあった訳ではない。

倒産する前後は、30人位の従業員がいた機屋(はたや)だった。物心ついた頃から、家業がうまくいっていないことは肌で感じていた。暮らし向きも、農家の同級生(半数以上がそうだった)と、そんなに変わりはなかった。もともとが最低限の生活レベルだったので、倒産したからといって、それほど落ちるものでもなかった。また、世間も同級生も、私の家が倒産したからといって、私に対する態度が特に変わったという記憶はない。ある面では、むしろ同情していてくれたのかもしれない。だから、倒産したこと自体をそんなに辛いと思ったことはなかった。

いちばん辛かったのは、それまで我が家に勤めていた人 ─ 特に、住み込みの従業員が急に居なくなったことであった。なんとも寂しかった。多くの家族と、多くの従業員と一緒の生活が、物心ついた時からの私の生活だったからである。私の学校生活は、それまでと特に変わりはなかった。

私が「貧乏」の辛さを初めて実感したのは、高校進学であった。私は9人兄弟であるが、戦後の教育制度になってから4人の兄姉は高校に進学していた。特に向学心があった訳ではないが、私も、高校には当然に行くものと思っていた。ところが、倒産という現実に直面し、それが極めて困難であると分かったのである。「お金が無い」ということが如何に厳しいことであるか、この時、私は知ることになった。

そのことを察した担任の先生が、私に、ある試験を受けに行くように言って下さった。それは、特別奨学金が貰えるという試験だった。学校の成績は良かったので、先生は、私ならその試験に受かると思い、推薦して下さったのであろう。私は運良くその試験をパスし、高校に進学できた。ちなみに、特別奨学金制度とは、高校生の場合、普通奨学金ならば月に1000円であるが、特別奨学金ならば月に3000円貰えるというものであった。ちょうど、私が高校に進学する昭和39年から発足した制度である。大学生の場合は、普通奨学金が月に3000円であるのに対し、月に8000円を貰えるというものであった。大学も、この特別奨学金を貰えたので、進学できた。

当時の新潟県立高校の授業料は、月に800円だったと記憶している。月1000円の普通奨学金で授業料は払えるが、それだけで学校生活は送れない。月に3000円貰えれば、授業料を払った上で、学校生活を送る諸費用も賄える。非常に有難いものであった。もちろん、勤めるのではないから月給は貰えない。しかし、父も母も兄弟も、私が高校に進学することは賛成だった。

私が後に政治家の道を歩むことになったことに、この特別奨学金制度は深く影響している。政治は、個人的にはどうしようもない問題を解決できる力をもっていると、私は、自らの体験を通じて知ったのである。このような問題は、奨学金だけではなく、社会のあらゆる分野に存在する。教育費の問題は、高度経済成長を果たす中で、わが国ではほぼ解決したと思っていた。しかし、平成に入って子息の教育費が大きな社会問題となっていることを知るにつけ、平成貧乏物語の深刻さを痛感する昨今である。

  • 公開日時: 2011年09月25日 02時56分
  • 分類: General
  •