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1979年白川勝彦政治法律事務所を開いて40年間、私の基本理念は一貫して“リベラル”と“権利のための闘争”であった。それは現在も変わらない。

 

私の貧乏物語

No.55

私は、債務整理という仕事を天命と感じている。これは、私の人生と多分に関係あるからなのだろう。私の生まれた家は、絹織物を製造していた。父親が元気だった頃には景気の良い時があったようだが、父親は私が2歳のころに天然痘に罹り、一命は取り留めたものの、健康を取り戻すことができず、商売の第一線に立つことはできなかった。

兄がまだ幼かったので、姉が婿を貰い、その婿が家業に携わっていた。あまり絹織物業というものを知っていなかったために、私が物心ついた頃には、家業はうまくいっていなかった。子供心にも、そのことはそれとなく分かった。商売を行っている家は、日々の生活にそのことがハッキリと現れる。食べられないというほどではなかったが、家の中の雰囲気が、自然と重くなるのである。だが、幼い子供である私には、どうすることもできなかった。私は、大人たちに迷惑や面倒を掛けないようにし、できるだけ明るく過ごすように子供ながら努めていたように思う。

家業は徐々に傾き、私が中学校1年生の時に、我が家は倒産した。30人位いた従業員がいなくなり、婿夫婦と子供たちも家を出ていった。父と母・5人兄姉だけとなった。今ならば7人家族は大家族だが、住み込みの従業員を入れると30人位が一つ屋根の下で暮らしていたので、言いようが無く寂しくなった。まだ中学生だったが、倒産した家の子供というのは、やはり辛かった。しかし、特に苛められたという記憶はない。

倒産をすれば、いろいろな面でお金の問題が起こってくる。しかし、家の債務整理をする者はいなかった。父は名義上の経営者であったが、その処理ができる状態ではなかった。母は、商売のことを何も知らなかった。兄はまだ若く、婿の後を継いで商売を継続する状況ではなかった。何度か親戚が集まり、再建策や前後策を話し合ったが、結局はどうにもならなかった。

姉3人が家に残った織機で出織(でばた)を織り、一家の糊口を凌いだ。私は、僅かにあった農地で農作業の手伝いをした。母は農家の生まれなので、米や作物も作り慣れていたようである。家は残ったので、一家7人は何とか生活できた。しかし、この頃の生活は大変だった。が、それでも、時代と地域全体がまだ貧しかったからなのであろうか、惨めだったとう想いはあまりない。貧乏との付き合いは、私の場合けっこう昔からなのである。この続きは又にしよう。

  • 公開日時: 2011年07月21日 04時35分
  • 分類: General
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